『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 村上春樹/著(文芸春秋)
2013年 08月 04日
文学を志す人間にとって、村上春樹は劇物である!とはよく文学仲間の雑談で出てくる話題だ。もはや彼の文体に引っ張られ、危うい初心者は単純に模倣してしまい、模倣している自分にも気づかせてもらえないという、文体のニトログリセリンの様な人だ。
久々に、極めて真面目に彼の3年ぶりの書き下ろし長編をじっくり読んだ。
まず小説を書く人間にとっての感想として、「よく練られたまるで国宝の千手観音を観るような小説」であったこと。彼の特徴として視点が時々コロッと転換してしまう。僕たちレベルの合評だと「ここ、視点が変わっちゃってます」な指摘が出そうな部分でコロッと変えている。当然ながら村上はそれを計算している。ジャズのコードでいうテンションである。ルート音からみれば完全な不協和音であるが、そのテンションを付加する事で何ともいえない深みが出る事を知っている。Cmaj7をCとBの二音だけで弾く様なものである。
そして描写は相変わらず恣意的で美しく、最も多くの読者を虜にするお家芸だ。中でも神の声のような文章(もはやコピーライティング)を様々な登場人物に呪文のようにサラッと言わせる。
そして独特の読後感。小説そのものではなく、読者は自分の人生を振り返る。
純文学、ファンタジーなどを越えたジャンルとしての「村上文学」だからこそノーベル賞候補に常に名を連ねているというワケだ。
そして個人的な読後感想。
これは村上春樹の自分史ではないかと思ったのはボクだけだろうか?
テーマは一貫して、他者と自己。客体と主体。そして自己の中の他者や、主体の中の客体などが、万華鏡の様に交錯するように綿密に設計されている。
人間は誰しも、心の中では主観的に物事を考える。しかしその主観は果たして本当に自己から滲み出た個性あるいは普遍的な自分…では一切無いのだという、何となくみんなが薄々感じている事を横糸に、意見陳腐なキャンパスものを舞台にドラマツルギーを展開する縦軸とで織られている錦絵だ。
誰しも登場人物が自分に酷似している事を思い知らされ、そこに救いを得るという構図は、なかなかやっぱり村上春樹でしか書けないな。
多義的というか、シンプルなブルース進行というか、文学によって読者が得られる”何か”をバージンオイルのようにとことん純化してしまったような小説だった。
ヤバいヤバい。村上ワールドから早く抜け出ねばならぬ!と、少々焦った一作でした。