たまにはいろんな事を考える。
2011年 06月 05日
そこで時々、こうして中期的な過去と未来を見比べないといかんなぁと思うし、それにはブログが丁度いいメディアでもあるなと思う。
3.11を待つまでもなく、何となくほとんどの日本人は「今までの考え方」というモノを疑い出していたと思う。
疑うというより疲れてしまっていたような。
引き金はアメリカのリーマンショックに端を発する訳だけど、例えば自分のミノマワリにある「対前年比10%UP」的な”倍々ゲーム”な感じ。
それは民主党に政権交代していっそう顕著になったような気がする。
日本国民みんなが”55年体制”的な幻想に支配されていたのではないかという恐怖。じゃそれに代わる価値観とは何なのか?を考えあぐねているのが現状ではないだろうか。
そこに来て、ソーシャルメディアが脚光を浴びる。震災では大きく貢献したし、何よりも外国では革命さえ支援したのだ。確かに時代は変わっている。
だが、それと引き換えて、大切なモノも無くしているような気がする。
別れた彼女や彼氏の動向は、その気になればある程度チェックできる。
旧友も、「あれ?もう十年ぶりになるのかぁ…。いつもtwitterで見てるから、逢ってない気がしないなぁ」などという事が起こる。
便利だが、便利ではないシーンもあるのだ。
そして今から。ハッキリ言ってこの混迷は15年は続くだろうと思う。
原因は強力な指導力のある政治家も経営者も思想家も今の日本にはいないから。
経済は他国にどんどん追い抜かれ、負け惜しみのような価値観を自分たちで創っていくしかないのだ。
パソコンなどの機器を扱えぬ”デバイス難民”がこの10年で顕著になったように、これからは”語学難民”という事態が必ず起こる。
例えばこうだ。
我々が少ないながらも年金生活者となって、デーケアにお願いして介護つきでお風呂に入れてもらうシーンを想定してみる。
「あの、デーケアで入浴介助お願いしたいんですけど」
「石原さんは、英語で来ますか?中国語は?」
「いえ、どちらも…」
「じゃ、2時間6,000円になります。日本語オンリーの介護士さん高いんですよ。マレーシア語オンリーだと、政府の補助も出て2時間600円なんですけどねぇ」
そういう時代は必ず来る。
ネイティブで流暢に話す必要は無い。
自分を守る為に最低限の各語学は絶対必要で、我々世代までは「日本語オンリー」でも許されるが、その下の世代だと、語学が出来ないという事はそのまま、携帯電話を持ってない奴みたいな、どうしようもない”唖然な奴”になってしまうと思うのだ。
そんな事を最近よく考えています。(つづく)