イシハラマコトのマンボな日常へようこそ☆


by nestvision
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先週の心斎橋JANUSに引き続き、caboの夏のライブハウス第二弾です!
場所は神戸/三宮のアットホームなライブハウス『CASH BOX』です。
サポートドラムを入れた3ピース編成です!

Day/ 8.29 (sun)

『Music Map Vol.9』

Time/ 16:00/start 17:00
※caboの出番は19時です!(約40min.のステージです)

Place/ ライブハウス CASH BOX
神戸市中央区二宮町4-21-9 オレンジビル1F

※お店のHPはコチラで す!
※「加納町」交差点からスグです!

Fee/ ¥2,500/当日 ¥3,000(1drink ¥500別)

メンバーへ直接お電話、もしくはバンドHPにコメント頂ければ、前売りリストにお名前を入れますのでご連絡ください!
by nestvision | 2010-08-25 11:43 | ミュージシャン修行

yodare @ 0824

亜熱帯にも慣れてしまったかのような北新地。
本日も夜な夜な、素敵なyodarerたちが足を止めてくださいました。


b0025405_111381.jpg宣伝会議17期修了生(a)嬢。久々に覗いてくださいました。日々は保険のスペシャリストとして御活躍中。




b0025405_1121798.jpg同17期修了生(b)嬢。今夜は17期の同期ネットワークの今後について打ち合わせだったそうです。また飲み会とか呼んでくださいね!



b0025405_1141356.jpg月イチyodare店主でもある、詩人の灰根子さん。副業のお仕事もなかなか不自由な時代に突入みたいで。やっぱ自由でいるのは精神力が要りますよね。



b0025405_115541.jpg中学から同窓のアパレル社長さん。深夜バスで東京へお仕事に向かう前にお立ち寄り。思わぬ情報ゲットで嬉しそう。明日の飲み会楽しみだね◎



b0025405_117324.jpgお誕生日を迎えた元弊社社員のM嬢。今も時々仕事手伝ってもらってます。しかし歳を経るにつれ、ますます年齢不詳になるねぇ。



b0025405_1182776.jpg弊社所属編集者のS嬢。この日はMのお祝いに。どーですか?最近はってお話をしたかったのだけれど…。




b0025405_1192437.jpg弊社経理の要のNさん。この日はMの誕生日メシの流れ。いやはや何とか8月も乗り切りましたねぇ(経理と社長の呟き)



b0025405_1110345.jpg小顔がウリのNew Name嬢、久々の登場。やっぱりレッドアイがカラダに合っているのだねぇ。まぁ仲良くやってください。



b0025405_11121447.jpgcaboの名刺を製作中のアートディレクターのご存知O社長です。うんうん、いい具合でご帰還ってか、またどっかで飲んだやろぉ〜。



b0025405_11133465.jpg新プロジェクト立ち上げ準備中のデルモさん。商売道具につき顔出し不可。どーっすか?いいアイデア幾つか出ましたが、いろんな遊びが出来そうですね!がんばって☆



b0025405_1115384.jpg天然酵母パン&カフェなど周辺にいるデルモさん。是非弊社の畑プロジェクトブログ見てみて!ウチの編集者の社内プロジェクトっす



b0025405_11173334.jpgトリはやっぱこの人、W編集長さんです。基本弱り気味の夏の終わり。いやいや、ここからがドラマなんだと店主は期待していますよん。



いやはや、バラエティ豊かな今週の火曜yodareでございました。
ご来店のみなさま、いつもありがとうです☆

by nestvision | 2010-08-25 11:22 | yodare日記

8.22 JANUSライブ終わる!

酷暑の中、東心斎橋に出来た本格的なライブバーでのイベント「JANUSとおやじ」出演しました。
当日はハードロック中心のバンドが多かったのですが、われらがcaboでは多くの皆さんにお越し頂き、感謝感激です。
sancoとイシハラのデュオとなっての本格的なライブハウスでのGIG。
実は真面目に緊張しておりました。
サポートのすすきさんがドラムを叩いてくれるという安心感はあったのですが、やっぱり”場”はオリジナルメンバーの僕たち二人しか創れない。
「あっ、パワーダウンしたね」と思われないように、いつにかくリハーサルにも熱が入りました。
結果として、ボクたち何か”峠”をひとつ越えたような気がします。
まだまだ高い峠に向かって、caboはどんどん進化していきます。
来てくださったみなさん、本当にありがとうございました!

それでは、某ハートブレイカーのリクエストにお応えして、
先日のライブより「Because The Night」デス!



他の曲もコチラで見れます!
by nestvision | 2010-08-24 17:16 | ミュージシャン修行

yodare @ 0817

灼熱地獄の北新地。もはや大人の街も高温陽炎のその向こう側。嗚呼、暑い!

b0025405_15211361.jpgキシモトご学友にして、抱腹絶倒な方。いやぁ最高です。奈良の恋、実って欲しいところです。また大阪に来られた時には覗いてくださいね。



b0025405_15223825.jpgそしてキシモト、話題は恋バナ。店主とバージンロードを歩く日は来るのだろうか??




b0025405_15242349.jpgbar Kent店主来店。僕は何も聴いてません、そして何も知りません。編集部の方、編集長は朝から晩まで働き詰めですよー!




b0025405_1525461.jpgアパレルHOUちゃん登場。暑すぎてそういや写真撮るの忘れてた。んでクマ。





コメント書くのも暑い。レジの集計するのも暑い。きっとこのブログを読むのも暑いと思います。
by nestvision | 2010-08-18 15:26 | yodare日記
一部で不評を買い、一部で”なかなか面白い”と好評価を受ける当ブログの"ぴあ関西版"連載ではございますが、とある編集者からmixi経由でなかなか熱いメッセージを頂いた。
その方のお立場なども考慮し、ディープなコメントを削除しつつ、本質的な部分は引用させていtだく方法で今回は進めてみたいと思う。

過去6回、回想録やら”ぴあという存在”論的な大枠で語って来たのだが、以下に引用する彼のコメントによる構造的な内部崩壊(あるいは矛盾の無意識化)というのは、実はもう15年ほど前から始まっていたのかもしれない。

その際のキーワードはタイアップ広告の台頭やったと思う。純広告で儲けまくった甘い汁をさらに吸おうと手を出したタイアップ広告。これはある意味、現代のサブプライムローンみたいなもんやった。

うまい事いうてはります。先のリーマンショックを引き起こしたサブプライムローン問題と同じく、我々のやってしまった大きな過ちはコレだった。
『編集タイアップ』。
この言葉は90年代初頭、雑誌界で破竹の勢いで突っ走っていたマガジンハウスが、”Tie-Up編集室”なる肩書き(あるいは部署?)によって、それまで”編集タイアップ”というものに戸惑っていた編集者の背中を押し、その金満信仰を大きくこの業界に広めるキッカケになった。
その権化みたいな人が、マガジンハウスのスター編集者であった石川某氏であったような気がする。(後に彼は広告の責任者となり退社され、時代の変化と共に独立されるのだが)

とにかく、90年代に入って、このタイアップ広告がよく売れた。
まさに時代はあの暗黒の”メセナ時代”である。昨日までニッカポッカを穿いて仕事していた社長が、アルマーニのスーツに着替え、メセナ事業としてエンタテインメントエリアや飲食産業に事業の幅を拡げていった時代である。
その頃のバブルを謳歌したニッカポッカ社長は、「こういうもんはプロに任せるのが一番や!さぁ、ぴあさん、好きにやってくれ。金はこの木村に伝えてくれ」的な大盤振る舞いが続く。
今でもボクたち世代が後輩に語り継ぐ”自慢話”は、ほとんどがこの時代に起こった話である。
編集者はシャンパンを飲み、かつてのディスコ時代に栄華を極めた大学生たちは、彼らのブレーンとして、新しい飲食の形態を編み出して行く。

「編集部が作る広告ではない広告」なんてありえない。今考えると、まさに詐欺的発想。
これに手を出したことで編集部が次第に壊れ始めた。


この方はそう断言する。ボクもほぼ同感だ。彼のいた編集部と、我々ぴあ関西版では、バブルの風圧が圧倒的に違っていたであろうから、彼の喪失感には及びもつかないだろうと思う。

また、彼はこうも指摘している。

それまで純広告でクライアントと接点がなければ、「クライアントなんて知らん!」と突っぱねていれたのが、自分たちで作るようになるともう駄目。いいなり。
あげく、純広告需要が減ってくるとタイアップ広告シフトの姿勢を強め、もう編集部は編集長、副編集長が広告部と代理店の人質状態。雑誌の編集権なんて言葉だけに形骸化していく。

と。
かつての雑誌は、販売部と広告部、そして編集部は三位一体であり、イーブンかつ常に健全な議論(要するにケンカ)せよ!というのが理想のセオリーではあった。
販売部は、雑誌の中身が真っ白であっても◯万部は売る!という気概に燃えていたし、広告部はたとえ、販売部数は100部でも◯千万は任せとけ!というのが任侠雑誌社会では美談とされた。

そしてそういう人質の役回りを、ヘラヘラと笑って演技出来るような人間がどんどん台頭していく。(このボクがまさにそうだったと思う)
物言わぬ”編集職人”タイプの人間は、この時代にはほとんどが淘汰されていく。
級数表が読めなくても、トリミングの縮小指示ができなくても、DICを掛け合わせで憶えていても、何の役にも立たない時代に突入する。
そんな事より、せっせとパーティやレセプションに出掛け、広告代理店や出稿元の人間と楽しげに会話を楽しみ、テレビやラジオにご意見番的に出演するという、断末魔的エディターが闊歩し始める。(多分、それを地で走ったのは、ボクや彼の様な人間だったと思う)

最後に彼はこう締め括るのである。

ネットが雑誌を駆逐する前に、雑誌は平家と同じように奢れる者の宿命の道を歩んだ。

まさに仰る通りなのである。
じゃ、そんな状況を創り出した事を反省してるのか?と言われれば「NO」だ。
きっと、そこらあたりが、この連載の落ち着く所になるのではないかという予感がする。
旧大本営が、諸々の偶然が重なって真珠湾を攻撃してしまったような状況に似ている。
すでに世の中はタイアップ合戦で、自分たちの媒体の1ページをどれだけの札束に換えられるか?にボクたちは奔走した。もはや本来の情報誌とか、雑誌魂など云々していては競合に抜かれてしまう。
日々、広告部と打ち合わせし、広告代理店に愛想を振りまき、クライアントには心底忠誠を誓うフリをし続けて行くのだ。まさに崩壊に向けて突っ走って行ったのである。

では最後に「平家物語」の冒頭部分を皆で噛み締めて黙読しましょう。

祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。


あのインテリ集団、平家でさえ、時代が動き出せばイデオロギーへの回帰など夢のまた夢だったのだ。
「何かおかしい…?」と思いながら、無為に競争させられた(いや自発的にかもしれぬ)のである。

まだまだ(つづく)
by nestvision | 2010-08-14 11:39 | 日記desu
なんか思い出話ばかりになって来たので仕切り直し。
【なんで情報誌がダメになっちゃったのか?】
「ウェッブにとって代わった」とか「編集者に気合いが無くなった」とかいろいろ言う人がいる。
そのどれもが全否定出来ないし、一理あったりするのだが、根本的にそういう事ではないと思う。

ボクは90年代に入って、メジャーシーンとそれに対するカウンターカルチャー、そしてその底を潜行するアンダーグラウンドなものの、区別が曖昧に…というか無くなったということが大きいと思う。
早い話がマーケットの細分化とか言われる部分である。
ここら辺は、多くの方々が様々なメディアで語られているので、そちらの方がわかりやすと思うのだが、その理由あれこれは尤もだと思うこと然り。
ただもっと底に流れる源流って何なんだろうか?という問いをこの10年ほど無意識にやって来た。

朧げながらの結論(いや仮説かな?)は「セックス」に行き着く。
今でこそ「エンタテインメント」なる雰囲気語が市民権を得て、こちらも何となくわかったような気になってるが、実は「エンタテインメント」ジャンルなど無いのである。(少なくとも男の子の中には)

言いかえると「性衝動の変化」といった所だろうか。
かつて、ぴあ関西版が最初に「♡ホテル大特集」をやった時、担当のY内はフルフェイスのヘルメットを被り、桜宮やなんばといったラブホ街で、入ってくる客をずっと見ていたのである。
そのウラには「どんな奴と、どんな奴が、どんなホテルでヤッてるんだろうか?きっとそういう情報に読者は釘付けなハズだ!」という仮説があったと思う。
しかし、この企画が2年、3年と回を重ねるごとに、「部屋に入ってセックスしないでいるカップルが増えたらしい」という状況に社会が変化して行くのだ。

例えば、ぴあ最盛期の頃、「コンサートチケット2枚ある」とか「映画の招待券を2枚貰った」というのは、その先に必ず”憧れのあのコ”との時間につながった。
一人で単館でフランス映画に見入っていたオタクな男の子にも「フランス映画を語り合える彼女がいたらなぁ」という衝動があったのではないか?

自分に置き換えると、ギターを始めたのはモテたかったからであり、映画を勉強したのは「イシハラくん、映画詳しいね」って涼しい顔で見つめられたかったのである。
それは前述のカルチャーの階層にともなって、女の好みが分かれたような時代。すなわちどこのカルチャーに属するかは、どんな女の子が彼女に欲しいか?の裏返しだったような気がするのである。

実のところそこであって、広告業界にもてはやされ、時代の寵児となっていくに連れ、そういうモチベーションはたいへん恥ずかしく、これを何かの文化カテゴリーに入れようとするベクトルが業界全体に大きく広がったのではないかと思う。その結果が「エンタテインメント情報を読者に提供するメディア」という、きわめて口当たり(いや、クライアント受けする)キャッチコピーだったのである。

ボクはそういう”デートで使えないエンタメなんて”という発想でやって来たが、時代は、別にデートしなくたっていいんじゃないっすかぁ?という方向に進む。
必然的に、情報を得る事への執着の度合いに変化が起こったのである。

(つづく)
by nestvision | 2010-08-11 15:34 | 日記desu
【多分、絶頂期】
記憶は曖昧だが、いろんな時代の変化や、ぴあ社そのものの抱える関西への想いなど、ヘドロの様な想いとは別に楽しくって仕方が無い時代もあった。多分関西版としては部数も最高だった時代と合致していると思う。
時期として94年から95年あたりではないか。
ボクは創刊編集長としてやった雑誌を一年で廃刊という憂き目にあい、失意のもとこの関西版編集部に帰って来た。盟友の石川某と二人、そしてアルバイト一名で会議室をあてがわれ、「夏季限定ぴあ」の創刊号。今でも「夏ぴあ」として刊行されているMOOKの原型だ。一冊編集が終わり、また関西版編集部に戻る。
編集部長には東京からやってきたkent氏。そしてボク。K口とY内という両翼のヘッドに、カツオや石川某もいたし、とにかく今もどこかでつながっている人間のほとんどは、この新生関西版編集部にいた。
イベントで儲け、広告で儲け…という、いい時代の最後だった頃である。(実際には京セラのコンサルティングが入っており、ガシガシ儲かっていたのに、全社的にはまだまだ…的に編集部メンバーには実感は無かったが)
チケット営業からやってきたY内(現編集長)は、「ラブホテル特集は絶対にウケる!」と編集会議で宣って、広告スポンサーに気を使いつつ、また中吊り広告で”「ラブホテル」はダメだという事で、「♡ホテル」として表記した。
しかし、この号は大当たり。実売の上乗せに拍車をかけるのである。
音楽廻りをやっていたK口も、piamanなど面白い動きをどんどんやっていく。
この頃は、編集部の男子全員でキャバクラを占拠したりしていた時期だ。

今にして思うと、この時期の関西版の上昇ムードが、その後のぴあ社全体の動きに多少影響を与えたように思うのだ。
この時期には、鉄板であったぴあ首都圏版の部数は下り坂。また東京本社はバブルと共に大企業然と今までの雰囲気と変わって行く。
いわゆるチャレンジスピリットみたいなのが失われてしまっていた時期で、そんな本社から何だかヤンチャに快進撃を続ける関西版を、疎ましく思う者、あるいは東京で使えるな…と思っていた人間が増えて来たのである。

数年後、人事による関西版編集部の外的解体が始まって行く。真っ先に解体パーツに指定されたのは、このボクなのであった。

(つづく)
by nestvision | 2010-08-11 09:25 | 日記desu

yodare 0810

お盆ウィークに入った北新。連日の猛暑でオネーチャンの店も暇みたい。
そんな中、火曜yodareはええ感じ。懐かしい人、そしていつもの人。


b0025405_8522219.jpgご存知、月イチ店主の伊香牛部音観堂氏。とーっても懐かしい人を連れて来てくれました。今週は明日が営業日。来週はお盆休みだそうです。ゆっくりお休みくださいませ。



b0025405_855395.jpgそして懐かしい人。某広告代理店勤務のKさん。ボクが広告から編集部に移る頃、ピッカピカの新人さんで入社されました。今も第一線で活躍されるキャリアウーマンさんですね。また来てください☆


b0025405_8572053.jpg会社起ち上げで忙しいN。今度は相当固めに慎重派のご様子です。えっと、Dホテルの件、ひとつよろしくお願いします。




b0025405_8585274.jpgはいbassmanマツモトです。金のないベーシストが、弦を茹でるのを初めて知りました。あんたあの頃苦労してたのね。今は新弦がすぐ買えて良かったね。



b0025405_903616.jpgご存知O社長です。新しいヘアスタイルで颯爽と登場されました。えっとそれ以上言いません。悪くはないです。でもしばらくネタになりそうで、楽しませていただきます。



b0025405_92061.jpg後輩のT。訳あって祭うちわです。珍しくスーツで登場。近々に大口の仕事が決まるらしい。がんばれ!騙されるなよ☆



いやいや、22時頃まではボウズで帰ろうかと思っていたら、ちょうどいい感じとなりました。
皆様、また「火曜yodare」を御贔屓に!

by nestvision | 2010-08-11 09:07 | yodare日記
【そもそも、ぴあ関西版とは何だったのか?】

今でも忘れられないエピソードがある。
多分91年か92年にボクはぴあ関西版の副編集長になっていたのだが、まだ就任当時は「ピンク映画」の欄が見開きで展開していた。今も時々仕事で出会うフリーラーターの上田某が若干21歳の女子だった頃。うら若き乙女が、そのページを一人で担当していた。エッチな単語を連発したタイトルの電話確認や、日活などから送られた宣材写真の乳首に網掛け指定をしたり(当時掲載基準で乳首は☆の網30%で隠す決まりにしていた)などを恥ずかしそうにやっていた。
本人は火が出るくらいに恥ずかしかったハズだけれど、そこに当時の”ぴあの編集者”は誇りを持っていた。
「黒澤作品もロマンポルノも、同じフォーマットで同じように扱う」というプライドだ。
上田某と堂山のポルノ映画館にマスコミ試写に行ったりもしていたし、その後ピンクから多くの映画監督が巣立って行った。
そんな「ピンク映画欄」が忽然と抹消されてしまうのである。
理由は大手の広告スポンサーの言葉である。
「ピンク情報を掲載しているような情報誌には広告は出せない!」と。
その時、関西版創刊以来の編集長であるM氏(当時は編集部長)は、編集部として断固反対してくれるだろうと現場の我々は思ったが、あっさりと撤退。あれ?ってくらいの幕切れだった。
同じ事がその後もあった。
今も茶屋町にある某劇場。そこでロンドンから痛快なコメディミュージカルがやってくるという。
当時ペーペーで演劇担当をしていた石川某は、この公演の成功に情熱を傾け、演劇欄のトップ記事で報じたいと申し出る。
極上のコピー「ロンドンから最上級のB級コメディ○○○が遂に来日!」という見出しと共に。
その早刷りが、今では関西興行界のドンとなった敏腕社長から、当時の支配人であるM野某に速報で入ったらしい。
「オタクでの演目をB級だと報じてる情報誌がありますよ」と。
すぐにM野某支配人は編集部に激高して電話をして来た。
早速、石川某とボクは茶屋町に急行した。「B級の意味が違う!ぴあはこの演目を最上級に扱っているのだから…」と説得に当たった。
ここでも、部長Mが最後に登場し、支社長までともなって、陳謝とペナルティまで受けて帰って来た。
現場のボクも石川某も、上げた拳を下げるに下げられず、ジクジたる思いで、ぴあ関西版の行く先を憂いた。

今も語られているか確認していないが、ぴあ創刊からのコンセプトである「平等性」「客観性」「網羅性」(あと二つくらいあったが忘れた)という、まだ20歳代そこそこの我々にはカッコいいコンセプトが連呼されていたのである。
今、自分が会社を起業してみると、実はこのコンセプトも後付けではなかったか?と思う時がある。急成長の波に乗った学生ベンチャーとはいえ、会社を維持発展させていくのは並大抵ではなかっただろう。
そもそも、編集指針など考えてから創刊なんか絶対にしていない。大きく時代がうねって「我々の創ってる雑誌はどういうものなんだろう?」と振り返って、壮大なコンセプトが後付けされたのが真相ではないかと思う。

今にして思うと、創刊編集長のM某や支社長も、いわば東京ぴあの黎明期における第一世代入社組である。
その後、時代の寵児となった難関のぴあに何とか入社した我々は第二世代入社組のような気がする。

創業当時のいろいろを、美談として再生成された創刊物語や、創業秘話に憧れて、勝手に自分たちなりの”ぴあ”を心の中で創ってしまった我々と、アパートの一室で何となく大きくなってしまった会社を見てきた上層部との”ぴあなるモノ”の捉え方が根本的に違っていたのではないか?
今となると、そういう事を強く思うのだ。

この根本の幹の部分での小さなズレは、その後大きなウネリとなって、この会社を襲うのである。

(つづく)
by nestvision | 2010-08-06 12:18 | 日記desu
もちろん、私は被害者ではない。限りなく加害者に近い被害者であるかもしれない。

【広告バブルという時代に抗えなかった】

ボクは入社から5年を広告部という、当時の社内では「肩で風をきって闊歩する」セクションの下っ端だった。
入社した時点で、ぴあは東京圏では、もはや時代の寵児となっていたから、関西圏でのブレイクも間もないと東京からの転勤組の上司たちは思っていたはずだ。
すでに「ぷがじゃ」は青色吐息だったが、「Lマガジン」絶好調の時代。
われわれ下っ端は「BIG X Project」という素晴らしくダサイ名前のプロジェクトに参加させられた。
毎号、競合誌である「Lマガジン」を渡され、「イシハラは23p〜42pね」と言われる。
その範囲に掲載されている広告主に何とか直接コンタクトをとり、どういう経緯で出稿されているか?広告代理店はどこか?あわよくばぴあに興味を持たないか?という、地べた営業を強行した。
毎朝毎朝、会議が行われ、進捗を報告させられた。
今になって思うが、われわれは言われた通り、ガムシャラに電話して歩き回っていればいいのだが、毎朝会議を開催していた東京からの転勤組の上司たちには今でも頭が下がる。今の営業的な動きの基本は全部この頃、身に付いたものだと言える。

でもそんな背水の陣的な動きをしながらも、どうも余裕綽々だった関西支社。たぶん「東京では天下統一したんだ。そのうち関西の田舎もんだってひれ伏すぞ!」という気持ちが無かったとは言えないと思う。

90年代を目前とした頃に、急激に確かに広告が増えて行ったが、ボクは関西版単体で、純然たる広告媒体として健全に売れていたかどうかは疑問だと思うのだ。
JAL、サントリー、資生堂、ソニーといった東京企業はこぞって首都圏版でセンセーショナルな広告を展開していた時代だ。マルチ32Pなんて普通にあったし…。
当時、まだ関西に宣伝部を置いていた、松下電器(現パナソニック)やシャープ、サンヨー、MIZUNOなどの全国ブランド企業は、そんな東京のナショナルスポンサーに触発されて”東京で話題のぴあに広告出すぞ!”というモチベーションで広告を打っていたように思う。
関西での売り上げにカウントはされてはいたけれど、その広告主は「ぴあ関西版」というメディアに出稿していたのではなく、「ぴあというムード全体」に出稿していたのだと断言出来る。

多分、そういう広告センスの距離感みたいなものが、最終的に生き残ることとなる「Meets」などと決定的に違って来た最初の分岐点であったと思う。
その頃の「Meets」は”イケイケぴあ”から見れば吹けば飛ぶ様な存在だったし、きっと創刊間もない「Meets」は相当広告に苦労していたと思う。

要するに、86年に初めて関西で採用されたボクたちの、土地勘みたいなものが、東京からの転勤組にはどうしても汲み取れなかった。
後に日限さん周辺や、EVIS、吉本興業といった”関西らしいクライアント”をVIP含めて本気で攻めていなかった時代へと続いて行くのである。
「そんな関西単の銘柄よりは、JALの沖縄キャンペーンを優先」させる土壌がこの頃からもあった。
リージョナル性というものに、「ぴあ関西版」が今でも明確に答えが出せないのは、この分岐点にまで話がおよぶのではないだろうか。

結局、関西単の広告100万よりは、東京、関西セットで出す1200万が当然優先され、ビジネスモデルも作りやすい。「結果としての数字」ではなく、「結果のための数字」という考え方は、ボクも含め当時の営業の心に根付いた感覚である。

そのずっと後、ぴあ社がIPOするDNAみたいなもの(いや、もしかしたら創業者のDNA)が、善くも悪くも全社員が共有していた時代でもあったと思う。

(つづく)
by nestvision | 2010-08-05 23:20 | 日記desu