『幕末殉教伝 イエス斬り捨て』 伊藤えん魔 / 作・演出
2008年 05月 13日
多くのゲストを迎え、ファントマとしては5人だけ。
その5人で衣装や美術、制作もこなし、この新しい劇場に懸けたという。
芝居は明らかに、かつてのファントマとは違っていた。看板ゲストの猫ひろしや、きんた・ミーノのキャラクターが前面に出ていて、正直言って前半戦はどーなるのか?と心配したのだけれど、中盤から”えん魔ワールド”にぐいぐい引き込まれる。
伊藤えん魔のファントマでのコンセプトであるハードボイルド。
それは、彼の死生観がずっとどの作品にも一貫しているところなのである。
伊藤えん魔の死生観、ボクなりに解釈すると、「生きるも地獄、死ぬも地獄」であり、「生きるも死ぬのも同じくらいに、軽く、そして重い」という事。
幕末の新撰組まわりの史実を、オリジナリティ豊かに混ぜ返して新解釈をもたらしているところは、勉強家・えん魔のお家芸だが、我々観客は、えん魔の根本である死生観に自分をなぞらえる。
楽日の体力ギリギリの一番おいしい舞台を観れた。
自然と、スタンディングオベイション。
終演後、楽屋を訪ねて、この間の苦労話など聞きながら、それでもえん魔ちゃんは達成感のある顔をしていたなぁ。
演劇というのは、ものすごく人間関係が密で、しかも個人的に経済活動としてなかなか成立しないから、モチベーションの統一みたいなのが一番難しいのだろう。
だから、シャトナーや後藤ひろひと大王は、そういう進み方をしたし、逆に絶対的にその集団を変えない内藤さんのような座長も居る。
まぁ、その構造は様々難しい部分があるのだけれど、観ている観客はそんな事は関係ない。
知っている役者にまんまと裏切られ、自分の心になにかの波が立てば、それでいいのである。
そういう意味で「イエス斬り捨て」は、ボクに何かを残してくれたと思う。
2週間以内に、酒を飲もうと約束して、真新しい楽屋を出たのであった。
※今回、思ったのだけれど、やはり過去の作品はすべて、美津乃あわに書いたものだったんだなぁ…と改めて思ったのである。