イシハラマコトのマンボな日常へようこそ☆


by nestvision
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ぴあ関西版 10/7売号をもって休刊~その4~

【そもそも、ぴあ関西版とは何だったのか?】

今でも忘れられないエピソードがある。
多分91年か92年にボクはぴあ関西版の副編集長になっていたのだが、まだ就任当時は「ピンク映画」の欄が見開きで展開していた。今も時々仕事で出会うフリーラーターの上田某が若干21歳の女子だった頃。うら若き乙女が、そのページを一人で担当していた。エッチな単語を連発したタイトルの電話確認や、日活などから送られた宣材写真の乳首に網掛け指定をしたり(当時掲載基準で乳首は☆の網30%で隠す決まりにしていた)などを恥ずかしそうにやっていた。
本人は火が出るくらいに恥ずかしかったハズだけれど、そこに当時の”ぴあの編集者”は誇りを持っていた。
「黒澤作品もロマンポルノも、同じフォーマットで同じように扱う」というプライドだ。
上田某と堂山のポルノ映画館にマスコミ試写に行ったりもしていたし、その後ピンクから多くの映画監督が巣立って行った。
そんな「ピンク映画欄」が忽然と抹消されてしまうのである。
理由は大手の広告スポンサーの言葉である。
「ピンク情報を掲載しているような情報誌には広告は出せない!」と。
その時、関西版創刊以来の編集長であるM氏(当時は編集部長)は、編集部として断固反対してくれるだろうと現場の我々は思ったが、あっさりと撤退。あれ?ってくらいの幕切れだった。
同じ事がその後もあった。
今も茶屋町にある某劇場。そこでロンドンから痛快なコメディミュージカルがやってくるという。
当時ペーペーで演劇担当をしていた石川某は、この公演の成功に情熱を傾け、演劇欄のトップ記事で報じたいと申し出る。
極上のコピー「ロンドンから最上級のB級コメディ○○○が遂に来日!」という見出しと共に。
その早刷りが、今では関西興行界のドンとなった敏腕社長から、当時の支配人であるM野某に速報で入ったらしい。
「オタクでの演目をB級だと報じてる情報誌がありますよ」と。
すぐにM野某支配人は編集部に激高して電話をして来た。
早速、石川某とボクは茶屋町に急行した。「B級の意味が違う!ぴあはこの演目を最上級に扱っているのだから…」と説得に当たった。
ここでも、部長Mが最後に登場し、支社長までともなって、陳謝とペナルティまで受けて帰って来た。
現場のボクも石川某も、上げた拳を下げるに下げられず、ジクジたる思いで、ぴあ関西版の行く先を憂いた。

今も語られているか確認していないが、ぴあ創刊からのコンセプトである「平等性」「客観性」「網羅性」(あと二つくらいあったが忘れた)という、まだ20歳代そこそこの我々にはカッコいいコンセプトが連呼されていたのである。
今、自分が会社を起業してみると、実はこのコンセプトも後付けではなかったか?と思う時がある。急成長の波に乗った学生ベンチャーとはいえ、会社を維持発展させていくのは並大抵ではなかっただろう。
そもそも、編集指針など考えてから創刊なんか絶対にしていない。大きく時代がうねって「我々の創ってる雑誌はどういうものなんだろう?」と振り返って、壮大なコンセプトが後付けされたのが真相ではないかと思う。

今にして思うと、創刊編集長のM某や支社長も、いわば東京ぴあの黎明期における第一世代入社組である。
その後、時代の寵児となった難関のぴあに何とか入社した我々は第二世代入社組のような気がする。

創業当時のいろいろを、美談として再生成された創刊物語や、創業秘話に憧れて、勝手に自分たちなりの”ぴあ”を心の中で創ってしまった我々と、アパートの一室で何となく大きくなってしまった会社を見てきた上層部との”ぴあなるモノ”の捉え方が根本的に違っていたのではないか?
今となると、そういう事を強く思うのだ。

この根本の幹の部分での小さなズレは、その後大きなウネリとなって、この会社を襲うのである。

(つづく)
by nestvision | 2010-08-06 12:18 | 日記desu